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日々雑感
幸せは日々の雫のような時の中にある。
毎月の、つれづれなるままに……
2012.09.09 Sunday

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母の旅立ち

「みなしごに なってしまった」
妹が、ぽつんと幼児のように言った。
母の骨あげを待つまでの 空白の時間だった。
私は何も言わずに妹の言葉を何度も心で反芻していた。

 終戦直後、混乱の中で母は、夫の消息を求めて府庁へ出かけて行った。必死になって係りに問いかける母に、見かねた上役の方が、必ず調べて連絡をするからと答えてくださったらしい。
戦死したり行方不明だったり、残された家族の思いは、しばらく癒されない時代だった。
私の姉は赤ん坊のときに亡くなった。父母の幸せな新婚時代の写真とともに、アルバムの中で静かに笑みさえ浮かべて見える赤ん坊の写真が大きく引き伸ばされて貼ってあった。
「赤とんぼ 病舎の父を 見舞いけり」戦地で父が詠んだ句だ。
肩に弾創を負っていた。
父は私が3歳のときに帰還した。
帰ろうという意思を強く持ち、苦労の末に、赤い大地から帰ってくれた父がいて、不幸な時代を、母が気丈で元気でいてくれたことが、家族にとってのその後の人生には、大きな幸せであったのだと今にして思う。
戦後、弟が生まれ妹が生まれ家族は平穏を取り戻していく。
若い父と母が描いた人生設計は、根こそぎ奪われてしまったが、
身体の底までこたえるキーンという焼夷弾や爆音がない、平穏こそが、何よりの幸せだった。
思い出の多い子ども時代を送らせてもらった。
 父は91歳で7年前に逝った。
そして今年、お盆の送り火の日に、母は93歳の命を終えた。
花に囲まれた母は穏やかな美しい姿で棺に眠っていた。
家族葬のお花には孫、曾孫たちの名が並んだ。「おおばあば、目明けてほしい、天国のことききたい」と曾孫の凜太郎が言った。
弟は「送り火の日に旅立ちました。父が母を迎えにきて、一緒に仲良く行ったと思います」と挨拶した。

入院中の母を妹たちがよく見舞ってくれた。
仕事に終われる私の分まで、特に弟嫁の美智子は自転車でたびたび母を見舞い、妹雅子は奈良から週に一度は車をとばして訪ね報告してくれた。
春、桜が咲き始めたころから母は神様に近くなっていったようだ。屋上で春の歌をメロディで歌う私を不思議そうに見ていたが「はるがきた はるがきた どこにきた」には首を振ってリズムをとった。
一緒に詩吟を謡い、よく笑った日が夢のようだ。
大好きなスイーツや美智子が食べやすくした果物はほんとうにおいしそうに食べたが少しずつ食欲が衰えた。
点滴も受け付けず、胃ろうをと主治医が言った翌日に静かに息を引き取った。
  お骨上げが済んで晴天の空模様が一転、突然の大雨と雷、風が私たちのバスを襲った。兄弟従兄弟たちの団欒の中に母がいた。「皆がいるから大丈夫やわ」雷嫌いの母が言ったように思えた。
最後の読経が終わり、長い一日が時間の推移も感じないまま終わろうとしていた。弟に急かされ、 私は「大好きな母、許すがかち、恨んだり謗ったりしない人。母に感謝、そして美智ちゃん、雅子ありがとう」妹が「何事にもケセラセラ、前を見ていた母に ありがとう、おねえちゃん(美智子)ありがとう」と一言挨拶した。
母のあの破顔一笑、あふれるような笑顔が浮かんだ。

 父と母を見送ることができてよかったと思う。
 

 
 
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