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日々雑感
幸せは日々の雫のような時の中にある。
毎月の、つれづれなるままに……
2011.09.19 Monday

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アネモネの花が咲いた

 玄関先の花壇に夫がアネモネを植えてくれました。
赤、白、紫が咲きました。先日の雪に埋もれたのですが敷き藁のお陰で元気よく、また茎をすっきり伸ばして風に揺れています。
アネモネは私たちにとって大切な意味をもった花なのです。
日本名は風知草、英語ではウインドフラワーと呼ばれています。
 
息子がなくなる前に「風になる」と言ったのは、いつものようにふざけながらの家族のおしゃべりの中のことでした。
テレビで放映されていたドキュメントが、息子と同じ病をもった方たちの闘病の様子でした。
はっとした娘が「チャンネル変えようか」と息子に問い「いいよ、そのままにしといて」というので3人でそのまま見ていました。
終わったあと、「死んだら、どうするか」が、なんだか私流の呑気なおっちょこちょい談義になり「おしゃべりできないのがいやだ、知らせるからね」「いややなあ、マミちゃんはそそっかしいから天国からがらがっちゃんとものを落としながら降りてくるのやろ」
このころ息子は私のことをお母さんとかふざけたときはマミちゃん
と呼んでいたのです。
息子は「かみなりになる」などと言って「あらあ、うそでしょう、雷嫌いの癖に あははは」
娘も私も息子もなんだか大袈裟に笑ったのでした。
「雷やめ!風になるわ」と息子、娘と私は電気で合図するとか言ったように思います。
私は息子の「風になる」を透き通るように心に受け止めました。
「千の風になって」という歌が流れるもっともっと前のことです。
息子が逝ってから、今も風を目で追うようになりました。
 
息子が亡くなった後、私たちのことを書いてくださった随筆家
秋山加代さんの「母と風の息子」という本の表紙に秋山さんはお母様のアネモネの絵をお使いになりました。
お母様は富さんとおっしゃって慶応の塾長をされた小泉信三博士の奥様でした。
私たち家族はご縁をいただき秋山さんそしてそのお友達と旅行をしたり、お食事をしたり我が家におよびしたり東京のおうちへ伺ったりしました。息子は「東京のおかあちゃん」とお慕いし秋山さんの深い教養と経験に裏打ちされたお話が大好きでお会いするのを楽しみにしていたのです。歌舞伎通の秋山さんのお陰でいつのまにか歌舞伎の魅力にひきこまれたのでした。反面女学生のような柔軟でいきいきしたおしゃべりが我が家流と共鳴しお会いするののをどんなに楽しみにしていたことでしょう。
  息子は逝きもう一人の大好きだった博士とひそかにお呼びしていた秋山さんのお友達花作りの名人Kさんも、急逝されました。
月日は驚くような速さで過ぎ去り、私たちも老人初級者とあいなりました。
  アネモネがウインドフラワーというのよと教えてくださったのは、秋山さんとこの博士Kさんです。楽しい会話が忘れられません。 夢のように過ぎていった時間です。
秋山さんの随筆のなかの2章「風の剛さん」に恥ずかしいような
私たちが登場します。
春、夫の春一番のプレゼントは過ぎ去った多くの時間をよみがえらせて風に吹かれています。
この花壇を冬の間掘り返し山つくりや池つくりなど泥んこ遊びの基地にしていた孫が遊びにきました。息子のことを「剛さん」と呼ぶ子です。折角の泥んこの山がアネモネの花壇に変身していましたが、

 

 
 
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