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日々雑感
幸せは日々の雫のような時の中にある。
毎月の、つれづれなるままに……
2010.04.28 Wednesday

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母のこと

  母の生れ故郷は、泉南の吉見の里である。
屋号を大徳という地主の6人兄弟の末娘にうまれた。
長男は跡取り息子というので親は厳しく、小作の仕事もすべて身を持って学べと学業とともに農業も徹底させた。
それが原因でもないだろうが,体をこわし、若くして亡くなった。
 それにひきかえ娘たちには甘く、特に末娘の母はおおらかに愛されて育った。楽しかった思い出ばかりと母は乙女の頃を懐かしむ。
病死した3人の兄姉への思いもあって両親は三人の娘たちを大切に育んだのだろう。
母の額に小さな傷が残っている。
鬼ごっこで転び神社の忠魂碑を囲っていた鉄条網に引っ掛けた跡だそうだ。おかっぱ頭の元気な子どもの頃の母を想像する。
吉見の里は海が近く、陽光明るい農村であった。
朝、魚売りの声で目が覚めた。
天王寺師範を出たばかりの民俗学者の宮本常一が若き日訓導として吉見の里に配属され、子どもだった母は教えを受けた。
「知らなかった凄い人だったんだ」といって「庶民の発見」とか「忘れられた日本人」「女の民俗誌」「家郷の訓」などの文庫本になった彼の著書を持ってきた。
たしか「家郷の訓」にほんの少し吉見の里で訓導〈小学校の教師〉だった宮本氏の姿が垣間見える。
「学校教育と村の慣習や家郷の躾の間に食い違いがあることをしったこと」「教育者としての悩みが民俗学を学ぶ動機になった」とある。
村の親たちはいそがしくて学校へ出てこない」と書いていた。
そういえば参観日には、兄が来たと母が言っていた。音楽会で「ケンタッキーの我家」を歌ったのを聞きにきたのも姉だったらしい。
女学生になった母は 屋根裏の、海を遠くまで見渡せる部屋を勉強部屋にしてもらった。「うれしかったわあ」とついこの間のように目を細めて話した。
海を見に行くのが好きだったらしい。
夕日に染まった海を飽きずに眺めた。
夕日が沈む瞬間は、海に引き込まれそうで恐ろしい、後も見ずに駆けて帰る。そのくせまた海へ行った。夢見る乙女であった。
  ゆったりと育った母が結婚、即戦争の渦、戦時中の並大抵でない苦労もこの乙女にかかるとケロッと語られる。
運命に逆らわない。しかし諦めない。本当はなかなかの肝っ玉の持ち主らしい。したたかである。
 亡くなった私の息子剛が車椅子で母は良く手伝いに来てくれ、暇ができると家事の合間に周辺を散歩した。小さな花瓶に野の花が挿してあると、寺が池で見つけたとか息子の学校の傍の田圃の畦で見つけたのだと喜んでいた。息子は、こんな母の笑い声が好きで「おばあちゃんは、よう笑うなあ」
一緒になって笑っていた。
治療法もないという病に侵され、障害をもった息子の前で、明るく前向きな姿勢を見せてくれて嬉しかった。「かわいそうに」などという言葉はきいたことがない。
大正八年弥生三月が母の誕生日だ。
つい先日超多忙の親不孝娘に代わって夫が母を訪ね、近くの公園へお花見にいってきた。「乙女はご機嫌うるわしくしておいでだった」と夫は言う。
一緒に暮らす私の弟より弟嫁の美智子への信頼のほうが強い。
「みっちゃん、今、怖い人が入ってきてねえ」と部屋へ朝の挨拶に行った弟が不審者にされて大笑いしたそうだ。
毎週母を訪ねてくれる私の妹から報告が届く。
母は時々子どものようになる。
時々過去と現在とが混沌とする。

母がいとおしい。
 

 
 
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