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日々雑感
幸せは日々の雫のような時の中にある。
毎月の、つれづれなるままに……
2009.11.29 Sunday

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私の武蔵野

我家の紅葉した楓に、傾きだした陽の光が射して、何層にも影が揺れる。風が出始めたようだ。
柘榴の葉はすっかり黄葉しその風に乗って舞い散る。
柘榴の木の下は、四方が金色に埋め尽くされて、かさこそ乾いた音がする。
この二坪ほどの隙間を「私の武蔵野」と呼ぶことにしている。

行けども行けども林の中、「十分に黄葉した林が4,5丁も続き後ろに人影も見えず、誰にも逢わず」という国木田独歩の武蔵野には程遠いが心の中で「縦横に通ずる幾千条もの道」を感じ想像するのだ。
あこがれの武蔵野ではないが、画の中に吸い付けられ、かって出会ったような懐かしさを覚えることがある。
つい先日、小野竹喬展でであった「高原」がそうだった。
透き通った空気,湧き上がる雲、鳥のさえずり、そよぐ風。
私は,一点の大きさになってそこにいた。
「海だベがど おらおもたれば やっぱり光る山だったじゃい
ほう 髪っけ 風ふけば 鹿踊りじゃい」
宮沢賢治の詩 「高原」が浮かんだ。
日本画家 竹喬の昭和31年の作品だ。
「虚心になると自然はちかづいてくる」と竹喬は言う。
こんな風に私たちにまで自然をちかづけその息遣いまで感じさせてくれる「絵画」。
その日の秋晴れが心弾ませ、閉館前に行こうということになった。
ぎりぎりまで作業をしていた夫は,あわただしく着替え、車に乗り込んだ。天王寺美術館の特別展である。
目的の画は竹喬晩年の「奥の細道句抄絵」、松尾芭蕉の句を絵画化したものだ。
言ってみれば作曲家の思いを譜面に見て、感じて奏でる音楽家のように、竹喬は芭蕉の心に呼応し、竹喬独自の世界へ誘っていく。
ポスターになっていたのは「あかあかと 日は難面も あきの風」を題材にしたもの。
画面中央に壮大な太陽、雲を染め、空を染める。
その下にすすきが風に揺れる。
それらは単純化した図案のようでいて、自然の真実を切り取ったような魅力があるのだ。

  「武蔵野を散歩する人は道に迷うことを苦にしてはならぬ。どの路でも足のむくほうにゆけばかならずそこに見るべく、聞くべく、感ずべき獲物がある」
  現在の武蔵野にはおそらく独歩の書いた風景は残っていないだろう。けれどもこの文章の中に武蔵野は現実に存在する。
  時を越えて人の心を打つ。
  独歩は文章で、竹喬は画で、自然を切り取り私たちに見せてくれる。
心の深い所で作家と画家と私がつながったような気がした。
親しみを感じた。
   さて「私の武蔵野」、と悦にいっていると 隣の猫がブロック塀を横切っていくではないか。

フフンと鼻を鳴らし、ミヤオウと声をあげて「失礼こちらわたくしの通路でございます」とばかりに、あたたかい庇の上の陣地へ行くようだ。
まあいいでしょう。
金色に散る柘榴の葉に目を細めているのは、なかなかの猫と褒めてやりましょう。

 

 
 
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